評価センター資料閲覧室

今後の固定資産税制のあり方 〜簡素・効率・透明〜 第9回 固定資産評価研究大会報告書

U.オープニング講演

「市民協働のまちづくり」が都市の新しい豊かさをつくる

 

 
  前横須賀市長
  沢田 秀男 (さわだ ひでお)
 
 
 
1957年  東京大学法学部卒業。自治省に入省。
自治大臣官房総務課長、国土庁官房審議官、地方振興局長を歴任。その間、群馬、富山、三重、宮崎の各県の課長、部長等および広島市助役を歴任。
1988年横須賀市助役。
1993年 横須賀市長に就任。2005年退任まで3期12年務めた。
市長在任中、政府IT 戦略本部員、全国市長会行政委員長、分権時代の都市自治体のあり方検討会座長などを務めた。
地方自治経営学会参与。
主な著書  エッセー集「海が光る街から」全2巻(神奈川新聞社2003年、2005年)
主な論文  「均衡ある発展は終わった」(「Voice」2001年6月号PHP研究所)
「市民協働が都市の豊かさをつくる」(「新地方自治の論点106」所収 時事通信社2002年)
「自治体改革を条例によるまちづくりから推進する」(「地方自治職員研修臨時増刊号78」所収 2005年公職研)
 
研究大会プログラムより
    
○「豊かな都市」の条件としての共有価値
 都市は人間を取り巻く環境である。環境は「空間」「機能」「社会」の視点から見ることができ る。
 都市の「機能」としては「仕事」「学び」「遊び」「暮らし」がある。多様な機能がそろい、便利 という実用的価値に富む都市は魅力があるが、それだけで「豊かな都市」といえるわけではない。
 都市の「空間」の美しさや快適性、「社会」の温かさや安心といった精神的、感性的な価値が重 要である。それらの価値は、自分だけの力では得られない。人びとの共同の努力、つまり「協働」 によってみんなのものになる「共有価値」である。
 共有価値が空間や社会に息づいていることが「豊かな都市」の条件になる。
○「顧客」から「演技者」になる市民
 市民は行政との関係では多様な立場に立つ。有権者(Voter)、納税者(Tax Payer)、公共サー ビスの顧客(Customer)、政策形成への参加者(Co-planner)、協働の担い手(Partner)、公共サー ビスの供給者(Supplier)などである。
 市民が行政と共にまちづくりの主体として行動し、責任を共有する「協働者」となるとき、市 民は都市という「人生の舞台」において顧客(Customer)から「演技者」(Actor)になる。
○「市民協働のまちづくり」が都市の新しい豊かさをつくる
 まちづくりにおける「市民協働」は、都市の共有価値の充実への貢献を通じて市民満足度を高 め、市民間の交流と連携の深まりにより新たな市民ネットワークの形成を促す。それは、市民力 を向上させ、地域社会の活性化をもたらす契機にもなる。
 「市民協働のまちづくり」は、21世紀の都市の「新しい豊かさ」をつくるキーワードである。

 

 

 ご紹介をいただきました沢田秀男でございます。本年7月に3期12年務めました横須賀市長の職を退任したところであります。本日のオープニング講演については在任中にお話がありました。私としては本日の研究大会は退任後でもありますので、どうかなという思いがあったんですが、矢野浩一郎実行委員長はかつてお世話になった直接の上司でありまして、かつての上司はいつまでたっても上司のように感じられるわけであります。その方がぜひ話をするようにとのご意向だと伺いましたので、こうして参上した次第であります。
 皆様の多くは日ごろ固定資産税の賦課とその基礎としての資産の評価に心を砕いていらっしゃると存じますが、そのご労苦に対してまず深く敬意を表します。今回の大会が実り多いものでありますことをご期待申し上げます。
 さて、私の本日のテーマは「『市民協働のまちづくり』が都市の新しい豊かさをつくる」ということであります。私は21世紀の都市経営の基本に「市民協働」を置くべきであるという考えを持っております。ここで都市と申しましたけれども、町村も含めて地域の問題としてお考えいただければと思います。

1.都市を見る視点−都市は人間にとっては環境

 まず都市をどのように見るかということであります。都市というのは人間を取り巻く環境であり、それは「空間」と「機能」と「社会」という3つの構成要素を持っていると思います(図1‐1)。
 次に真ん中の図(図1‐2)は都市を人間の視覚でとらえたときにどうなるかということを掲げたものであります。人が外部から受ける情報の8割は視覚でとらえた情報であるといわれています。したがって、私たちは都市というと、通常、目で見たものを思い浮かべるわけであります。例えば、パリといえばセーヌ川と白い遊覧船、シテ島のノートルダム大聖堂の偉容、ロンドンといえばテムズ川のほとりにそびえる国会議事堂、東京なら皇居のお堀と二重橋の景色というように。それらは「自然」と「構築物」と「人間」とで構成されます。
 図1‐1の機能というのは目に見えないものでありますが、それは図1‐2の構築物という形で具象化されます。例えば、教育の機能であれば学校、行政であれば庁舎、金融の機能は銀行、医療であれば病院、治安であれば警察署という構築物を通じて、目にすることができるわけであります。
 図1‐3がありますが、これは都市を人間の行動の面から見たらどうなるかということであります。「仕事」と「学び」と「遊び」と「暮らし」から成っているということがいえると思います。それらを支えるのが都市の機能なのです。本来「暮らし」というのは広い概念ですから、外側の大きい円そのものが広義の暮らしでありますが、その中で仕事と学びと遊びという、人間の自己充足のための行動を3つ取り出してあります。この図の中央にある暮らしというのは、それら3つ以外のもの、例えば家の中で食事をしたり、テレビを見たりする行動、さらには日用品の買い物をしたり、病院に通うなどの行動を言っています。
 これら4つの機能がバランスよく整っていて、しかもそれが低いレベルではなくて高いレベルで整っている都市は「いい都市」であります。けれども、そういう都市がすべて「豊かな都市」であるかというと、そうではないのです。今日これからお話し申し上げたいと思います。

2.「豊かさ」とは何か−価値観が変わった

 こんにち、豊かさについての人びとの価値観が変わったとよくいわれます。価値観の変化についてはいろいろな見方がありますが、ここでは都市づくりとのかかわりという観点から幾つかのものに絞って掲げてあります。
 まず「物の豊かさ」から「心の豊かさ」への変化です。かつては豊かさとはたくさん物を持つことという考え方が支配的でした。いまは物があり余るほどで、どのように処分したらいいかということに悩むほどであります。『捨てる!技術』という本がベストセラーになったことがそれを物語っています。いまでは「豊かさ」とは心の豊かさだという考え方に変わってきました。
 政府の国民意識調査によりますと、物の豊かさより心の豊かさを重んじるというように変わったのは1979年(昭和54年)からだといわれています。高齢者はもう買う物がない。その高齢者がどんどん増える社会では、ますます物の豊かさよりも心の豊かさが追求されるようになるであろうと考えられます。
 第2に「もの社会」から「こと社会」への変化ということがいわれます。これは、人びとのニーズが「もの志向」から「こと志向」へと変わってきたと置きかえてもいい。「欲しい物はあまりないが、やりたいことはいっぱいある」という社会、そういうふうに変わって来たのではないかと思います。「やりたいこと」というのは、種々のアンケート調査によるとトップはいつも旅行ということであります。あとは家で音楽を聞いたり、コンサートへ行ったり、美術展に行ったり映画を見たり、稽古事をやるとかスポーツをやる、あるいは社会奉仕をやる。す べて自分が主体的に「何かをすること」であります。そのことによって心の満足を得られる、それが心の豊かさにつながるということです。団塊の世代のリタイアなどで高齢社会化がますます進展すれば、一層「こと社会」への移行が顕著になるでしょう。それはサービス産業化を一層進めることにつながります。
 3番目に「貨幣的価値」から「非貨幣的価値」への変化であります。貨幣的価値というのは金銭で評価できるものであり、非貨幣的価値はお金では評価できない、または換算できない価値であります。物資的に豊かになった時代に、人びとは身の回りでお金さえ出せば欲しい物は何でも手に入るようになった。それにつれてお金を出しても買えないものに対する欲求が高まって、それが価値として重視されるようになりました。例えば、自然の豊かさや都市の景観の美しさ、人びとの人情のこまやかさ、コミュニティー活動が盛ん、小中学校の教育の質がいい、治安がいい、そういった価値が挙げられると思います。
 4番目に「実用的価値」から「感性的価値」を重視する方向に移行してきたということがあります。実用的価値というのは物やサービスの性能とか質をいいます。技術革新によって物の性能は飛躍的によくなりましたし、企業間の激しい競争の中で、どの企業の製品であっても、同じような金額、価格帯の物であればそんなに性能の差はないというようになりました。そうなると、あとは色とか形とかデザインとか、ブランド性とか、そういった自分の好みや感性などで物を選ぶということになります。若い女性は(しばしば若くない女性もですが)、「まあ、これカワイイ」というような感性の次元で選択します。生活の面で実用性が満たされてきたこともあって、いまや実用性に関係のない、情緒とか感性を満たす物への欲求が高まってきています。
 第5に「使用価値」から「資産価値」へ、あるいは「フロー的発想」から「ストック的発想」へという変化であります。豊かな時代になって、単に惜しげなく使う物、ただ使えればいいという物を持つ反面、高価であるけれども愛着を持って長く使っていくような物も求めるようになりました。だから、東京の銀座にパリのシャンゼリゼ通りにあるような高級の店がたくさん進出しているのでしょう。
 それから、最後6番目に「自分だけの価値」から「自分の努力だけでは得られない価値」への変化です。自分の努力だけでは得られない価値はそれを得るには人びとの共同の努力が必要というものであり、当然のことながらその成果は人びとみんなに帰属する共有の価値であります。こんにち、そういう共有価値を重視する時代になってきたと思います。この共有価値ということを、きょう、まちづくりと関連して大事な要素として強調したいと思います。

3.「都市の豊かさ」をつくる共有価値

 まず、冒頭に述べました都市の「空間」、「社会」、「機能」別に、それぞれにおける共有価値は何かということを考えてみたいと思います。第1に都市の空間における共有価値とは何かであります。都市の本質はそこで人びとが交流することにあります。交流が行われるためには、人びとが「行ってみたい」という魅力、つまり人びとを磁石のように引きつける魅力が必要であり、それがなければ、人びとはそこを訪ねないでしょう。そのための都市の魅力は、何よりも「都市が美しい」ということであるというのが私の信念です。都市の美しさ、それは都市機能がいい、例えば交通の便がいいとか、郊外に大型店が進出して大抵の物はそこへ行けば買うことができる、病院も幾つかある、映画ならシネコンで夜遅くなっても楽しむことができるというように、都市の機能がそろっていても、その都市の景観が美しくもなく、町にはごみが多い、路上駐車が多い、あるいは町の騒音がうるさいというように感性的な価値に欠けているような状況では、都市の魅力としては不十分だと思います。
 美しいということが基本であると思いますが、アメニティということも大事です。アメニティとは「快適さ」という意味に用いられます。美しければアメニティを感じるわけですが、逆にアメニティというのは美しさを基本としつつ、それ以外のものも含んでいます。外国では、アメニティとは「しかるべきものがしかるべき所にある」ことだといわれています。ここに緑が欲しいと思う所にちゃんと公園があることがアメニティを生む。それには「都市をつくる」という強固な「計画の意志」が必要なのです。ヨーロッパは、そういう点は非常に進んでいるとヨーロッパの都市を訪れるたびに感じます。
 西欧の都市と日本の都市とを比べたときにいろんな問題があるんですが、1つの大きな問題は、日本には長い間、「公」と「私」の区分しかなかったことです。その間に「共」というものがヨーロッパの都市にはあるんです。西欧には「わたしのおうちは、みんなの景色」という言い方があるといいます。自分の家は私的空間だけれども、他人から見れば町の景色の一部なのだから、道路に面した庭はきれいに整えておくとか、窓辺には花を飾るかしてきれいにしておかなければならないという考え方で、みんな競うようにしてやるわけです。つまり私の空間がいわばみんなの共有空間でもあるという認識です。
 それが日本の場合は、公か私かということであって、例えば繁華街の道路にしても「公」の空間だから自分と無関係だとして吸い殻を捨てるか、「私」の空間と見て歩道に店の商品を並べるか、そのいずれかという現象が残念ながら非常に多くの都市に見られます。みんなでお金を出しあった税金でつくった「共有」の空間だと思えば、ポイ捨ても、商品の歩道へのはみ出しもなくなり、街はもっと安全で快適なものになるでしょう。
 和辻哲郎『風土』と芦原義信『街並みの美学』では、ヨーロッパの人びとが建物の「内」と「外」とを空間として同一視する意識を持ち、それが「外」である都市空間を美しい景観にすると言っていますが、同じような考え方でしょう。ヨーロッパと異なり、内と外とを峻別し、外部空間についての共有意識が希薄なわが国では、行政として共有価値の重要さを努力して訴えていかなければならないんではないかと思います。
 第2に都市の「社会」については「温かさ」とか「安心」というのが社会における共有価値であると思います。安心という面では、最近、治安の悪化につれて多くの都市が防犯に大変力を入れ、専任の組織を設け、職員を配置するところが増えてきました。安心というのは、そういう公の努力も必要ですが、やはり地域における人びとの「自分たちのまちは自分たちで守る」という共助が基本であり、それには人びと相互の信頼関係が根底に必要であります。そういう信頼関係の存在が共有価値であります。
 第3に都市の「機能」における共有価値は何かといえば、私は基本的に「子供と高齢者と障害者と女性に優しい都市」が豊かな都市であると思っております。そういう都市は一般の人にも優しいのです。そのために機能の面で必要なのは「優しさ」、「楽しさ」ということであろうと思います。例えばハード面ではバリアフリーとかユニバーサルデザイン、ソフト面では手続きを簡素化するとか、窓口を一本化するワンストップサービスを行うとかいうようなことです。
 横須賀市で、2005年(平成17年)9月から稼働し始めたコールセンター(総合お問い合わせ窓口)は、ワンストップサービスの一例です。市民からの電話による問い合わせを1カ所で受け、そこで極力処理し、各部課間での電話のたらい回しを防ごう、それによって市民の満足度を高めようというのが目的であります。
 私は、旅をするとよく街を見ます。繁華街に活気があるか、都市景観への配慮が十分か、人びとが親切かなどが気になります。街を歩く女性に美人が多いか少ないかにも当然関心があります。そして努めてタクシーに乗ることにしています。タクシーのドライバーの応対が優しいとか、あるいは人懐っこいとか、親切とかいうようなときには、彼との会話を通じてその都市について知識を得ることができます。そういう都市は人びとの心にも余裕のある豊かな都市なんだなということを感じます。それはほんの一面的な印象かもしれませんが、極めて大事なことでありまして、お客さんの心に満足感を与えるということであるならば、それは一人のドライバーの親切さというだけでなく、いわば社会の温かさや、機能の優しさを感じさせるものであり、それがその都市の「社会」や「機能」の持つ共有価値なのです。

4.市民と行政との関係−市民は単なる顧客ではない

(1) 多様な立場に立つ市民

 市民は行政との関係では多様な立場に立つものであり、単なる顧客ではありません。図2の中央にCity と書いてありますが、市役所とお考えください。周囲に8つばかりの楕円形の図があります。左の上のほうから、まず納税者(Tax Payer)としての市民という立場があります。有権者(Voter)としての市民、行政サービスの利用者(Customer)としての市 民、それから通勤者、通学者として日常的にその都市にやってくる人びと(Commuter)、そういう人たちは流入人口ということでプラスになるわけであり、市民として考える。それから来訪者(Visitor)としての市民というのは、非日常的にその都市を訪れる人であり、大事なお客さんです。
 右の一番上から見ていただきますと、協働の担い手(Partner)としての市民、それから政策形成への参加者(Co-planner)としての市民、行政サービスの供給者(Supplier)としての市民がいます。一口に市民といってもこういう多様な立場を持っています。

(2) 都市経営の目標

 行政経営あるいは都市経営の目標について、市民を「顧客」つまり「お客さん」と見て「顧客満足度の最大化」を図ることだとする議論がよくされます。それはそれで極めて大事なことですが、市民はいろんな立場に立つわけで、顧客満足度が大きければそれでいいというものではありません。それぞれの立場に立つ市民の満足度の最大化を図ることだと考えるべきです。
 「納税者」としての市民を一例として考えてみると、その満足を得るというのはなかなか大変ですよね。皆さんもご苦労が多いと思いますが、そのためにはまず行政が悪いことをしない、汚職や官制談合がないとかいうことは当然ですが、組織、人員の削減や事務事業の見直しなど行政改革を徹底的にやるということ、それから行政がいいことをやるといったことで、税金を納めたかいがあったと感じてくれることが納税者の立場としての満足ということであります。
 「有権者」としての市民の立場からすれば、例えば、いい首長を自分たちは選んだ、いい仕事をしてくれた、1票を投じたかいがあったというのが有権者としての満足ということであります。
 もっと積極的に、市民が市の審議会や研究会などの委員として参加したり、市の特定の事業の構想や計画を作る作業に行政のパートナーとして加わったりしたような場合には、市民満足度は一層高いものになるはずです。身近な例として、街区公園(以前の児童公園)の建設の場合、市が調査から計画、実施までのすべてを行い、出来上がった公園を住民が使うということでも、それなりの「顧客満足」を受けられますが、住民が最初の段階から市のパートナーとして一緒になって取り組み、地元の実情(子供が少なく、高齢者が圧倒的に多いなど)を十分に加味したものが出来れば、住民の満足度ははるかに高く、「わたしたちの公園」という意識で愛されることでしょう。
 そういうことを総体的に考え、市民満足度の最大化を都市経営の目標とすべきであると考えます。

5.「市民協働のまちづくり」が都市の新しい豊かさをつくる

(1) まちづくりへの市民と行政のかかわり方

 まちづくりに市民と行政とがどうかかわるか。それを図3に示しました。図の左のほうは行政の主導性が強い分野です。右の端は市民が主体的、自律的に活動するというもので、右に行くにしたがって市民の主導性が高まる分野であります。黒い太枠でくくってあるところが行政と市民とがかかわり合いを持つ分野であります。枠の中を左のほうから見ていただきますと、行政主導で市民が参加するという分野、次が行政が主導するけれども、その仕事の一部を市民に委嘱したり、委託したりするということです。企業市民やNPO などへのアウトソーシングというのがこの分野に入ります。ここでは行政が最終責任を負うことになります。その次は行政と市民が協働をするというもので、両者がお互いパートナーとして相互補完をし、責任を共有していくという分野であります。
 枠の中の一番右は、市民が主体的に活動し、行政が支援する、つまり行政が補完的立場に立つということであります。支援の仕方としては、助成金を交付するとか、会議の場所や情報を提供することなどが含まれます。その例として、横須賀市の「市民活動サポートセンター」を挙げます。市内に3カ所あり、市民グループやNPO などがいつでも予約なしに訪れて会議や打ち合わせをすることができる。パソコンが置いてあり、インターネットを使っていろんなホームページにアクセスして情報を得たり、資料を作成したりすることができる。印刷機も置いてありますから印刷もできます。最近では、そこで知り合った市民グループやNPO が情報を交換し、交流を深め、新たなネットワークを形成する動きが顕著になってきました。

(2) まちづくりの担い手としての市民

 まちづくりの担い手としての市民と行政とのかかわり方としては、図3に示すように「参加型」「委嘱・委託型」「協働型」「主導型」があります。「参加」と「協働」とはどう違うかですが、参加は行政が責任を負い、協働は行政と市民とが責任を分担もしくは共有するということです。今後は参加型から協働型へ移行することが望ましいと考えます。

(3) なぜ市民協働のまちづくりなのか

 なぜ市民協働のまちづくりなのか、ということは言い代えれば、市民協働まちづくりというのはどういう効果を持つのか、どういうメリットを持つのかということであります。
 1つは、暮らしやまちづくりの多様なニーズに対応するということであります。市民の暮らしやまちづくりに対するニーズが多様になり、極端に言えば、こんにち、市民は各人各様のニーズを持っている。それに対して、行政は「公平、平等、画一」という行動原則に立っているので、標準的、平均的なニーズに応えることはできますが、人によって異なる個別ニーズに対応することには限界があります。そういうところは市民の間近なところにいて、個々の事情に即した柔軟で迅速できめ細かなサービスを提供し得る市民セクターが対応するほうが、市民の満足を大きくするということになるでしょう。
 2つ目は、市民協働まちづくりに市民が参画することによって、自分は世のため、人のために役立ったということによる自己実現ということです。
 3つ目は、市民協働まちづくりに参加することによって、これまでつき合いのなかった人たちとの新たな交流や連携ができて、それによって新しいネットワークが形成され、地域社会全体の活性化につながる契機になるということ。
 4つ目は、財政危機のもとで、公共サービスを直営から民間に委託するということが、いま、盛んに行われています。いわゆるアウトソーシングです。その意味は、外部にある能力や資源を調達して行政の役に立てる、市民の役に立てるという意味であります。ただ、これは市場原理によって行動する企業が相手ですから、採算がとれなければやってくれない。アウトソーシングできる分野というのは相当程度限られます。アウトソーシングになじまないものについては、市民や市民公益活動団体、NPO など市民セクターの個人や団体が行政の良きパートナーとなって、目的達成に向けて行動するという協働が期待されます。
 5つ目は、まちづくりへの市民の意向が反映でき、それによっていわゆる市民デモクラシーが進化する、市民自治の成熟へ近づいていくということが言えると思います。
 横須賀市においては、以上のような考え方に基づいて「市民協働推進条例」というのを制定し、平成13年7月1日から施行いたしました。この条例をつくるときも市民協働でやったんです。通常は市民参加どまりです。そこでは行政がたたき台をつくって、それを市民にお示しして意見を聞く、あるいはパブリックコメントをやるとか、さまざまな形で市民の声を聞くというのが通常ですが、横須賀市の場合は行政はたたき台もつくらなかった。全く白紙のところから市民(市民団体の代表と公募市民)、行政の関係者、学識経験者等あるいはシンクタンクの人等が一緒になって、仲間となって条例案づくりをやりました。
 当時、条例の名称として市民協働という言葉を使ったのは横須賀市が初めてだったようです。ほとんどの自治体では、市民活動推進条例とかいうようなものが多かったと思います。参加と協働と申し上げましたが、2つのものの違いは、先ほどちょっと触れましたけども、最終責任がどこにあるか、行政に責任が残るのは参加であり、責任を共有するのは協働であるということであります。

(4) 「市民協働のまちづくり」が都市の「新しい豊かさ」をつくる

 「市民協働のまちづくり」が都市の「新しい豊かさ」をつくるということを申し上げたいと思います。私は市民協働のまちづくりの理論的な根拠として2つの視点を取り上げたい。1つは「新しい公共」という考え方であり、もう1つは「補完性の原則」という考え方です。
@「新しい公共」と市民協働
 新しい公共とは何か。かつては公共サービスはイコール行政サービスだったんです。公共サービスは行政だけが行っていた。図4は総務省の研究会が示したものですが、その図の一番上のだ円のように公共の範囲と行政の範囲が一致していたんです。ところが、価値観やライフスタイルの変化、暮らしやまちづくりに対して人びとが求めるものの変化などに伴って市民のニーズも多様化し、公共でやるべき分野が広くなってきた。一方、行政のほうは、それらを直接みずからやるというのが難しくなり、公共と行政との間にすき間の部分が生じ、それが次第に広がってきました。それらのニーズも公共的性格を持つものでありますから対処しなければならない。その部分をどうするか、どういう主体が担っていくかという問題が生じてきました。その部分が「新しい公共」といわれるようになりました。
 行政はそこまではとても手が届かない。企業セクターや市民セクターが新しい公共を担うというようになってきました。
 この部分は企業への委託というアウトソーシングでやるか、地域協働でやるということであります。
 内閣府の国民生活白書の平成16年版は「人のつながりが変える暮らしと地域」というタイトルになっており、サブタイトルは「新しい『公共』への道」とされています。また、総務省の研究会が平成17年の3月、「分権型社会における自治体経営の刷新戦略」という報告書をまとめましたが、そのサブタイトルが「新しい公共空間の形成を目指して」ということになっています。そのように政府のほうでも新しい公共あるいは新しい公共空間というのを大きく打ち出しています。自治体側としてもそういう認識を持ち、市民協働を進めていく場合のいわば理論的な根拠とすることができると思います。
A「補完性の原則」と市民協働
 2つ目は「補完性の原則」であります。これは1985年にヨーロッパ評議会がヨーロッパ地方自治憲章において定めたものでありますが、国際自治体連合IULA(International Union of LocalAuthorities の略)も「世界地方自治憲章」というのを採択し、その中で基礎自治体優先の原則というのを打ち出しています。それが実質、補完性の原則であります。わが国でも、政府の地方分権改革推進会議がそれを明確に打ち出しました。
 どういうことかといいますと、個人で解決できるものは個人で解決する。つまり「自助」。個人で解決できない問題については家族が応じる。家族で応じきれないものは隣り近所やコミュニティー、日本の場合は町内会、自治会が通常ですが、それが支える。これは「共助」または「互助」です。コミュニティーで解決できないときは、「公助」として、まず基礎的な自治体、日本の場合は市町村が支えていく。市町村でも対応できないものは、より広域の地方政府、日本では都道府県が対応し、それもできない場合は中央政府がその役割を担うという考え方です。市民からスタートして物事を考える、そして次々と、いま申し上げましたような主体がそれを補完する立場に立つということであります。こうした考え方は、わが国では防災の分野に取り入れられていますが、行政全体としては不十分です。市民協働のまちづくりは、商店街の再生がいい例ですが、行政から住民へ働きかけて動き出すよりも、住民が自分たちに出来ることは自分たちでやり、自分たちでは出来ない部分について行政の協力・支援を求めるという自主性、主体性を発揮して展開されるならば、それは補完性の原則にかなった最も望ましいものといえると思います。
B横須賀市における市民協働の具体例
 ここに写真が3つあります。参加から協働までの3段階の写真を掲げておきました。
 最初はヴェルニー公園とそこで活躍するバラのボランティア(p.17参考‐1)の写真であります。かつては臨海公園といって木が雑然と生えた変哲もない公園でありました。これを「ヴェルニー公園」という個性的な魅力を持つものに改造しました。
 ヴェルニー公園は幕末に勘定奉行の小栗上野介に招かれて来日し、横須賀に日本最初の近代工場、「横須賀製鉄所」(明治4年の完成時に「横須賀造船所」に改称)の建設に取り組んだフランス人の造船技師フランソワ・レオン・ヴェルニーにちなんでつくったものです。平凡な臨海公園が都市の記憶を造形的に表現する、思想を持った公園に見事に変身しました。
 ヴェルニーの造船所は、その後、海軍工廠となり、日露戦争での日本海海戦の大勝利に貢献して日本を救い、そして横須賀の都市としての発展を支えました。
 ヴェルニー公園では、毎年11月に、ヴェルニー・小栗祭というのを市の国際行事として行っております。ここにはヴェルニーと小栗上野介の胸像が並んで海を眺めています。公園はバラ庭園にして、バラの手入れの研修、訓練を受けた市民の皆さんが有資格者になって管理を行っています。これは「参加型」の例です。
 次は「武山地域自治活動センター」(p.19参考‐2)です。これをつくるときに全く白紙でスタートしたんです。武山地域の市民が中心となり、どういうのをつくろうかと、専門家も、建築、設計家も入っていろんな助言を得ながら、時間をかけて議論して基本設計までつくりました。実施設計は専門家に任せました。地域としては長年の悲願とも言えるものが実現し、「武山地域市民プラザ」と命名されました。これは一地域における「協働型」つまりパートナー型の事業の1つです。
 最後は、全市レベルで市民が参画してやった市民協働の事業であります。循環型都市を目指すごみ4分別への市民協働というものであります(p.19参考‐3)。平成12年度まで3分別収集でありました。家庭のごみを市民に「燃せるごみ」、「缶・びん」、「不燃ごみ」という3区分に分けて出してもらうというものです。それが、容器包装リサイクル法の施行に伴い、容器包装プラスチック類はこれまで不燃ごみとして埋め立てていたのを別に取り出して資源化しなくてはいけないということになりました。つまり、4分別にせざるを得なくなったわけです。そこで、この際、不燃ごみに含めていたペットボトルを缶、びんと合わせて回収して資源化の仲間入りをさせることにし、資源化率を高めるようにしました。
 何だ、3分別を4分別にするだけじゃないか、うちのほうは10分別もやってるよという自治体もあるんですけれども、分別の数が多ければいいというものではありません。分別の数はできるだけ少なくして市民の負担を抑えながら、いかにしてごみの減量化と資源化・リサイクルを図るかを考えなければいけないんです。
 長年慣れ親しんできた分別の仕方についてごみの区分けや収集の曜日・回数を変えることは、市民の日常生活に大きな変化を生じるわけで容易なことではありません。実際、おびただしい苦情や反対意見が出ました。このため、平成12年度に「ごみトーク」という出前トークを市内全域で精力的にやりました。実施回数は延べ1,129回、参加者数は6万1,500人に達しました。市の人口が43万人で世帯数は15万世帯ですから、単純に言うと全世帯の約4割もの世帯の人が参加したことになります。幸いにして市民の理解と納得が得られ、新しい4分別方法によるごみ出しに協力していただきました。その結果、焼却量は28%減、埋め立て量は80%減、そして資源化率は13%から一気に32%に上がりました。リサイクル量は実に9.3倍になるという成果が上がりました。これは市民の協働の賜物です。
 その成果を目に見える形にしようとしてつくったのがこの「横須賀市リサイクルプラザAicle」というのであります。資源ごみを再資源化するための中間施設であり、缶類、びん類、プラスチック類、紙類の4種類10品目のすべてに対応しています。全国でも最大規模のものです。市民公募をした結果、小学生の女の子の作品が当選しました。Ai というのは、地域や人びとへの愛。cle というのは、リサイクルのクルという意味です。この施設の前面は海なんですが、海に面したヨーロッパの貴族の館みたいな感じになっています。せっかく造るなら一目見たらその美しさで忘れられない印象的なものにしようということで、「これがごみの施設?」と驚かれるようなデザインになったわけであります。「アイクル」は、いま、市民が誇りと愛着を抱く施設となっています。市民はもちろん、全国からの視察も絶えません。「クリーンよこすか市民の会」という町内会単位の全市的な組織を中心とする循環型都市への市民挙げての協働は、全国的にも早い時期での国際環境規格ISO14001と環境会計の導入とともに、横須賀市が地球環境大賞「優秀環境自治体賞」に輝く大きな要素になったと思います。

むすび−「市民協働のまちづくり」は21世紀の都市経営のキーワード

 北欧の建築家にエリエル・サーリネンという人がいます。その人の言葉にこういうのがあります。「あなたの都市を見せてくだされば、あなたが何を考え、何を望んでいるかが分かります。都市は住民の心を表現しています。美しい都市の住民の心は美しく、醜い都市では市民の心も醜いものです」。
 大変身につまされる言葉ですね。都市というのは「市民の自画像」ということであります。井尻千男『自画像としての都市』は、そのことを説得的に論じています。都市は外観的に美しくなければならないけれども、それは内面的に、つまり人びとの心が美しくなければならないということであります。これを教訓としながら、都市づくりをしていかなくてはならないと思います。
 都市というのは「人生の舞台」だということがいわれます。そこでは、人びとは観客であったり、演技者であったり、演出家であったり、審査員であったりします。都市は人生を生きる場であります。その人生の質を左右するのは、心の豊かさをもたらす共有価値が身の回りにどれだけ存在するかということだと思います。都市の豊かさは共有価値に依存するという意味において、その共有価値をつくるための市民協働のまちづくりは「21世紀の都市経営のキーワード」になるというのが、私のきょうの結論でございます。
 これで終わりとさせていただきます。ご静聴いただき、ありがとうございました。