評価センター資料閲覧室

第6回固定資産評価研究大会 特別講演

   

 「固定資産課税の存在意義を考える」

 政策研究大学院大学教授 福井 秀夫
   
   
1. はじめに
   政策大学院の福井でございます。本日はお招きいただきまして、ありがとうございました。
 私は現在、大学で行政法を担当しておりますが、元々は建設省の役人でした。例えば国土庁の土地局で地価調査、不動産鑑定評価に携わったり、本省の住宅局、都市局などで、建物の評価、大都市住宅対策のような仕事に携わったことがあります。そういう意味で、都市問題や土地問題には関心を持って実務・研究を続けてきていますが、必ずしも財政学、税法等の専門ではありませんので、その点はご容赦いただければと思います。
 本日いただきました演題は「固定資産税の存在意義」ということですが、固定資産税とは、狭義の固定資産税に加えて、もう少し広く捉えて、土地に関連する税制、さらにそこから派生するもうちょっと大きな、所得税、消費税、資産税一般の問題との関連で、土地や建物の固定資産税を考えてみたいと思います。
   
2. 税の存在理由と目的
   まず、税の存在理由について、お話しします。まず、土地や建物の税というのはいろいろありまして、例えば狭義の固定資産税、都市計画税、土地譲渡益課税、不動産取得税、登録免許税、印紙税といった様々な、大きいものから小さいものまでの税目があります。これらの土地に関連する税制は、広い意味での固定資産に関する課税でありますので、いわば広義の固定資産課税だと言えます。
 広義の固定資産課税には、それぞれの税目ごとに、長い歴史と存在理由があります。特に課税の目的として当然に前提とされているのは、収入の確保ということです。国や自治体が公共公益活動を営むために必要になる経費を賄うということが、あらゆる税の基本になるということは言うまでもないことです。
 しかしながら、最近では社会の複雑化等に伴って、単に政府部門が課税で収入を得るにとどまらず、税を政策誘導の手段として捉えようという動きも強まってきています。租税特別措置といった形で国税にもありますし、また、様々な土地利用に関する優遇税制等の形で、固定資産課税の中にも政策誘導税制が既に組み込まれているところです。意識的に設計する税制があるのはもちろんですけれども、それ以外にも、意図するしないにかかわらず、広義の固定資産課税全般、土地課税全般に様々な政策的な効果を発揮するということも、押さえておかなければいけないポイントだと思います。
 即ち、単に税収が足りないから土地や建物から取るというのみならず、取った結果として、例えば土地利用が変わる、あるいは経済の動向が変わる、人々の所得の分配が変わるということが、多くの場合必然的にもたらされるわけです。課税の設計をする、課税の運用をするということは、様々な経済社会への多岐に渡る影響を踏まえて行うことが大変重要になる。これが現在の高度化、複雑化した社会での税の高度な機能ということになるかと思います。
   
3. 課税根拠とその類型
   税の根拠とその類型についてお話しします。では、何で課税をするのかということですが、目的については、先程のように収入確保や様々な政策がありますが、なぜその税を取っていいのか、例えばなぜ固定資産税を土地や建物から取っていいのか、なぜ所得が発生した人からその所得の何割かを税金として召し上げてもいいのかという、課税の究極的な論拠も別途存在しています。これも普段はあまり考えることがないわけですが、こういった問題を原理的につきつめて認識しておくことは、重要かと思います。
 大きく分けて、固定資産税に限らず所得税、消費税、相続税も全部含めて、何で課税ができるのかの根拠は3つある。第一は、運です。運がいいことに着目してかける税制もあり、例えば相続税などは、これに当たると思います。資産家の家に生まれた人が、高い相続税を後から取られる。親がたまたま資産家かどうかということは、運・不運でありますので、運に着目した税と言えます。
 第二の要素は、能力です。能力は、例えば所得を稼ぎ出す能力と言い換えればわかりやすいと思います。プロ野球の一流選手や、人気のある歌手などが、かなり高額の所得を得る。これはかなりの程度、その人の才能や能力に依存するものです。また、商売の才能のある人や技術開発に才能のある人が、高額所得を得ることもやはり能力に連動するわけです。極端な例を出さなくても、普通の市民でも、一定の能力に応じて所得が高かったり低かったりするという相関関係は、存在していると見る向きが多いと思います。
 そういう意味で、所得を稼ぎ出せる力には、運もあれば能力もあるということです。そして、この能力とは持って生まれたものですので、実は土地や金融資産を相続したのと同様に、稼ぎ出す力を相続したと考えることもできます。遺伝子に組み込まれた、一種の運がよかった人は、お金持ちになりやすいという要素があるわけです。運と能力は似ているわけですが、一応切り離すとすると、何らかの形として遺伝子として受け継いだ稼ぎ出す能力、才能といったものが、課税の大きな意味での論拠になっていることも否定できないわけです。
 最後に第三の要素は、努力です。これはわかりやすいわけですが、努力をすると所得が高くなる。勤労の美徳ということで、日本だけではなくどの国でも、一生懸命働けばお金持ちになれるという価値は、倫理道徳の中でも、小さい頃から繰り返し聞かされるわけでありまして、努力をすれば所得が増えるという相関関係は、一般的に観察されています。
 ただ、努力をしてお金持ちになった人から、その努力で稼いだ分を取り上げますと、後にも議論しますが、別途問題が起きる。即ち、努力をすると税金を取られるという関係がはっきりと認識されていると、その人は努力をしなくなるという、努力へのディスインセンティブが生じるという要素があります。勤労意欲を低下させて、努力を挫くと最終的に経済の活性化や社会の豊かさを損なうことになってしまうのです。
 3つの類型を考えると、総じて言えば、一般的な基準として、運や能力にはある程度課税をして、ならしてもいいのではないかと考える方はおそらく多いと思います。しかしながら、努力で稼いだ分については、できるだけその人に残してあげた方が、その人の努力に見合った分配が得られる。課税で召し上げて、その人が努力しなくなったら、その人がかわいそうなだけではなくて、社会の活力が削がれて、みんなが不幸になるかもしれない。こういう基準は、割り合い支持が得やすいのではないかと推測しています。
 もっともこれには、価値判断に係る部分がありますので、一概にこういう価値判断が支持されるとは限らない。しかし、価値判断に関する一種の政策判断は、国家として、自治体として必要になってくるという側面があります。
 ジョン・ロールズという哲学者がいますが、「原初的な無知のベール」という議論をしています。自分が生まれてくる前にどういう社会に住みたいのかを想像してごらんなさい、という議論を展開するのです。あなたがお金持ちに生まれるのか貧乏人に生まれるのかわからない、アングロサクソンの白人に生まれるのか黄色人種に生まれるのかもわからない、もちろん日本人か中国人かもわからないという前提に立つ。生まれる前に、自分がどのような所得、民族、人種、家族構成等に所属するのか全くわからない時に、どんな社会に生まれたいと思いますか、という問いを発するわけですね。
 この問いに対してロールズの答えは、もしそういう状況になれば、どのような酷い境遇に生まれたとしても、自分が生まれ落ちたであろう境遇を悲しまなくてもいいように、そういう境遇であったとしてもそこそこにやっていけるような制度設計を選ぶはずだろうと仮定するわけです。今、私が申し上げた運や才能によって格差がつく部分は、ある程度是正してもいいのではないかという判断は、こういう思想が背景にあるわけです。この議論は、一般市民の直感的な価値観に割り合いフィットするものだと思います。
   
4. 課税バランスと税制の設計基準
   運、能力、努力を前提にして、先進諸国ではどういう対象に課税するのかという課税の類型もやはり3つあります。論拠は様々ですが、大きく所得・消費・資産という3つの類型に対する課税が、先進諸国の大きな柱になっています。日本も、当然その類型に入ります。何でそういう課税をしていいのかというところでは、運や能力や努力が様々に交じり合って各類型が存在しているというのが、現行の日本の租税体系でもあります。
 そこで、狭義の固定資産税に入る前に、消費税を素材にして、基本的な論議を提起してみたいと思います。まず、消費税導入の頃、「所得、消費、資産にバランスよく課税すべきである。」という議論が広くありました。日本では所得、消費、資産のバランスが、著しく所得や資産に偏っている、特に所得に偏っているので、もっと消費にもバランスよく掛けるべきであると、消費税導入の頃、さらに現在でも消費税シフト議論で語られるわけであります。
 しかしながら、この議論では、バランスとは何だろうかということは、必ずしも明らかでないわけです。バランスよく課税するという以上、バランスについての基準が必要なはずです。ある基準に即して消費、所得、資産に対する課税がたまたま一定の割合になったとしたら、先験的にその数字があるのではなくて、ある基準の結果としてある割合が定まってくるのであって、それが一定の基準の下での、結果としてのバランスだということになります。例えば、最初から3分の1ずつ、国、あるいは地方自治体の税収を占めていなければいけないというのは乱暴な議論であって、単なるバランスということから、同等の比率で3つに割りましょうということには、なりません。
 これと似た議論ですが、日本では直間比率が直接税に偏り過ぎているという議論も、過去から現在まで広く見られます。直接税と間接税の比率です。日本は直接税中心主義で、間接税の比率が少ない。直接税に偏っているので、これを是正すべきである。したがって消費税を導入したり、税率をもっと上げるべきであるという議論があります。これに関連して、所得税の最高限界税率が極めて高いという議論もあります。
 しかし、これらについては先程の議論と同様でありまして、何と比較して高いのか、何と比較して偏っているのかという適切な基準、要するに設定の最適割合、最適税率なりを想定しませんと、尺度のないところに偏りという評価はあり得ないという意味で、科学的ではない議論なのです。
 これらの議論には多分に情緒的な側面が多いわけですが、おそらく多くの経済学者は、税の設計基準として大きな2つの目標を持っています。第一は、資源配分を歪めないということです。すなわち、様々な課税によって生じる様々な人々の消費行動、あるいは供給の構造が、税によってできるだけ変化しないということです。逆に言えば、変化するということは、様々な財やサービスについて無駄遣いが助長されるということですから、無駄遣いに寄与しないように、注意深く税制を設計した方がいい。
 これは、中立性とも言います。課税はできるだけ中立的であるべきだ、資源配分を歪めるものであるべきではないということです。税の設計基準の非常に大きなものです。税収を確保するに急なあまり、税の歪みが生じては元も子もないということです。
 もう一つは、税を取られる側の間での公平ないし公正な税です。例えば誰かが誰かより、何らかの合理化できない基準で多く取られ過ぎているとしたら、それは法の下の平等に反するという議論があり得るわけです。税の公平については、税務訴訟などでは厳格なチェックが司法によって入ることもあります。
 あらゆる税目について根源まで遡って、資源配分を歪めていないかどうか、公正に仕組まれているのかどうか、そしてそれが法制度の上だけではなくて、運用上もそのようになっているのかどうかという不断の検証をしてくということは、税実務担当者としても、また課税の設計をする側でも、大変重要なことだと思います。
   
5. 課税の公平性と所得税の累進課税
   そこで、特にここでは公平とは何かという議論について、さらに検討してみたいと思います。消費税の導入の頃、日本の税制は、大変不公平であると言われました。クロヨンとかトーゴーサンという議論に見られますように、農業者、自営業者、サラリーマンの間で、所得捕捉率に著しく格差があって、サラリーマンが重税感に喘いでいるという議論がありましたし、現在もその状況については、それほど変わっていないかもしれません。課税負担を公平にするために、もっとみんなが一律に、消費の時に税を払うべきである、それが公平であるという議論が多くあったわけです。現在も、それは根強いと思います。  そういう議論は本当に成り立つのでしょうか。ここで、消費税というのは、購入の都度に一定割合のフラットの税率を払う税ということで、現在の日本の消費税5%というのは、それに当たります。消費税とは、消費の総量に対して、低所得者、高額所得者を問わずフラットな税率で払うものです。したがって、これは累進税ではないということが、大前提になります。累進税とは、所得税の累進税が典型的ですが、所得の高い人ほど大きな税率で税を支払うというものです。消費税で累進課税を行うことは、技術的、物理的に不可能だということでもあります。  そうしますと、さっき運、能力、努力という3要素を申し上げましたが、運や能力は一種の相続財産、そして努力も、努力する能力と捉えれば一種の相続財産である側面はありますが、一応ここは切り離す余地はある。才能としての適性と、その人なりに努力するのかどうかということは、一応切り離し、論理的には別物として考えられる。そうしますと、先程のロールズの議論に絡めて申し上げたように、運や能力は補正してもよくて、努力は補正しないほうがいい、できるだけその人に残してあげたほうがいいという価値観、公平観を仮に前提といたしますと、課税の仕組みとしては運と能力でもたらされた所得ないし消費、要するに課税の源泉となる何らかの豊かさの指標に対して、100%で課税しても構わないということに論理的にはなります。そして、努力でもたらされた果実に対しては、0%課税にしたほうがいい。やや極端に聞こえるかもしれませんが、論理整合性を一貫させればこのようになるはずです。  これが技術的に厳密に可能かどうかは、さておくことにして、仮にこういう課税が可能になったとしますと、これは勤労意欲を低下させることも無いし、経済活力を削ぐことも無い税制だといい得ます。資源配分を歪めるかといいますと、努力に対して0%課税、運や能力は先験的なものですので、これで人々の行動が変わるということも考えられない。資源配分が歪まないし、努力には非課税、不労所得には課税だという公正観をもし認めるとすれば、その基準なりに公平なものだと言い得るかと思います。  これに対して、累進税は経済活力を削ぐという議論があります。累進の所得税をやると、働き者が怠けたり国外に逃げていったりして、日本の豊かさが損なわれる。だからむしろ、お金持ちは優遇して、たくさん税を納めてもらう方がいいという議論があります。ただこれも、累進が本当に努力の分に課税しているのかどうかという実態認識の問題ですから、累進の高い税率が、その人の運や能力を超えて、その人の努力でもたらされた果実の分まで吸い上げるような高い税率に設定されているとするならば、その限りにおいて、そのような累進課税は活力を削ぐ、あるいは勤労意欲を削ぐということが大いにあり得るかと思います。  しかし、それは一概に、累進課税が活力阻害税制であることの論拠にはならないわけでありまして、その累進税率の設定の仕方が妥当かどうか、努力を削ぐ形の設定なのかどうかという個別の検証を経ないと判断できないわけです。  累進の適切な税率は、技術的には決定し難いという議論があります。即ち、ここで前提としている、運や能力については召し上げるけれども、努力の寄与分には一切掛からないような累進税率を設定するのは、技術的に無理なんだという議論もあり得るかと思います。確かにこれを厳密に決めることは、無理だと思いますし、具体例・数値でシミュレーションをやったら、常に答えが同じになるような適切な税率を決めるのは困難であろうということは、私も同意するのにやぶさかではありません。  しかし、技術的に非常に困難が伴うからといって、フラットの単一税率でいいんだということには論理的にはならない、正当化されることにはならないわけです。少なくとも先程来の議論の前提となる努力、運、能力というものを全部一緒くたにして、あらゆる境遇や運・不運の違いを超えて、みんなが同じ稼ぎに対して同じだけの税金を払うということが公正であるという社会的合意があるのであれば、そういう税制は合理的だということになるわけですが、技術的に無理だからといって一気にフラット税率にいくのは、論理の飛躍に過ぎます。  一定の芸術家やプロ野球選手を見れば明らかなように、極端に多くの所得を稼ぎ出す方は、運や能力に大変恵まれてもいます。こういった運や能力に恵まれたがゆえに、大変な資産家になったという方について、その寄与分を一定の前提の下に推計するということは、決して不可能ではありません。努力の寄与分を控除した税制の設計として累進税の設計を捉えるいう議論は可能です。極めて正確なものであるということにはもちろんなりませんが、少なくとも試行錯誤の下での一定の仮定としては、あり得るということです。そうしますと、例えば最高限界税率の設定というのも、このような意味での実証的な基準に基づいて決めたほうがいいということにつながります。  また、所得税と消費税が代替関係にあるという事実認識が暗黙の前提とされていますが、所得の多い人は、消費も多いんですね。お金持ちほど、所得も多くて消費も多い。所得と消費は、その人の豊かさの程度のいわば代替的な指標です。  そうしますと、所得の総量なり消費の総量が個人ごとにもしわかれば、その人がどの程度豊かであるかについてある程度推測がつくことになります。したがって消費税の課税でも、運や能力を補正できるような税制が出来れば、即ち累進が可能な税制として仕組むことができるのであれば、消費の総量がわかって、それを個人ごとに一定の累進で割り振る技術がもし出来るのであれば、消費税でも、さっきの価値観からみて別に何の問題も無いということになります。  ところが、消費税で累進をやることはできないんですね。買い物の都度に、その人の累積消費額ごとに消費税率を変えて、別額の消費税を徴収するのは、技術的にまず不可能です。  世の中では、あまり議論をしたがりませんが、消費税シフトということは、要するに再分配をやめますという宣言と等しいわけです。本当に、日本の国民の大方の合意を得る価値観に合致するのでしょうか。消費税を10%、15%、20%と上げていこうという議論があり、しかもそれは固定資産税にも大きな影響を与える税収の枠組みになることからみて、決して無視できない議論ではないかと私は今でも考えております。
   
6. 消費税シフトの論理的矛盾
   私は消費税撤廃論者でありまして、東大の八田達夫先生の感化を受けました。消費税の最適税率はゼロだと信じておりますし、学術的裏付けも可能だと考えています。
 こういう議論をすると、弱者には後から分配すればいいんだという議論をする方が、かなりの比率でいます。この中にもおそらく、とりあえず消費の時にいったん5%でみんなに納めさせて構わないじゃないか、その段階で今までごかましていた自営業者達が払わされるんだからいい気味じゃないか、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。その上で、そこから今度は、本当に豊かか弱者かという何らかの基準を決めて、弱者にはもう一回分けてあげて、高額所得者からは別の形でもうちょっと負担をしてもらうというやり方だってあるだろうとお思いの方があるかもしれません。
 しかし、それは成り立たないのです。なぜならば、所得捕捉が困難だからこそ消費税シフトという議論が出て来たわけです。したがって、クロヨン、トーゴーサンを是正するために、徴税員を増やして所得捕捉の検査を充実させることなどによって、事業者を問わず個人を問わず、個々の稼いでいる所得をきっちりと把握しようという課税当局の努力は、これ以上はやらないということが、消費税シフトの前提だったわけです。
 消費税シフトとは、即ち、誰が弱者であるかを見極めることを、やめてしまうということです。しかし、弱者が誰かわからなくなるような制度設計をした後で弱者に再分配をするというのは、言語の論理矛盾です。
 究極のところ、弱者には強者から何らかの形で余分に再分配が必要だという価値規範を認めるのであれば、所得ないしは消費の総量といった、豊かさの指標を個人ごとに把握し、それを課税ベースにするという営みは、政府部門にとって必須となります。
 累進が所得税でしかできない以上、結局のところ、誰が弱者かということを見極めて、弱者を特定した上で彼らを救済するほうがいいという価値観をいささかでも信じる立場からは、消費税シフトというのは、それ自体が論理矛盾になるということを指摘しておきたいと思います。
 逆にいえば、再分配は一切いらない。貧乏な人、金持ちな人、みんなそれに応じた一定のフラットの税率を払うだけで、一切それを補正する必要はない。貧乏な人に、貧乏であることを理由にして、生活保護や公営住宅などを一切やるべきでないという価値規範や公平観もありますね。一部の学派ではこういう考え方や、さらに、人頭税だけでいいという議論も有力なぐらいです。要するにフラットの税率で、弱者に対しての措置は一切いらないという価値観に立つのであれば、消費税で完全に所得税を代替させるということは、極めて美しい税制になるわけです。フラットの税率ですから、人々の消費行動を歪めることがなくて、極めて中立的。そういう意味で資源配分の歪みをなくした大変美しい税制ということでありますので、これはこれで一つの立場だということになります。これが価値規範としてどれぐらい支持されるかというのは、私個人はやや疑問だと思っていますが、それなら、少なくとも人格は悪いかもしれないけれども頭は悪くない。私が申し上げたいのは、再分配は必要だけれども消費税が要るという、人格はいいかもしれないけれども頭の悪い人が日本には非常に多いものですから、それは論理矛盾だということをここで前提として確認しておきます。
 要するに、どちらかなんですね。分配が必要だというのであれば、累進の所得税しかあり得ないと認識せざるを得ないし、貧乏人に分け与える金は一切ないんだという前提に立つなら消費税でもいい。どちらかしか選べないということを、論理的に把握しておきたいということです。そういう意味で、消費税シフト論者は、再分配が一切いらないと言い切る覚悟があるのかどうかということを問いかけたいと思います。
 当時の大蔵省などでよくあった、福祉目的税として消費税を使うんだからこれは弱者に手厚いんだという議論も、論評に値しないぐらい矛盾に満ちた議論ですし、不公平を無くすために消費税というのも通俗的論理でありまして、結局不公平を無くすためには、だれが弱者、だれが強者という印を付けないといけないわけで、印を付けないで不公平を解消するということはできないわけです。
 結局、強者弱者度合をうやむやにしたまま消費税シフトが進むと、現在いっぱいあるいわゆる弱者救済対策が肥大化することになります。例えば農業、中小企業、公営住宅階層といった様々ないわゆる弱者類型というのが、日本中津々浦々に満ちています。政府でも、一種の産業構造転換についていけないような業種の人達や、あるいは例えば失業した個人の人々を対象にして、様々な分配政策をやってきています。
 しかし、なぜこういう複雑ですっきりしない、いわゆる弱者援助政策がいろいろ蔓延しているかといいますと、本当に誰が弱者かわからないから、いろいろな側面で弱者らしい人を見たら救い上げざるを得ないという一種の悪循環に陥っていると考えるのが、自然ではないかと考えます。
 かえって大きな政府が出現している。累進の所得税で、税務職員などをうんと増やして徹底的に課税、徴税をして、誰が本当の弱者かを見極めることによって、こういう一種のまやかしの真に救済を必要とする人に渡っていない可能性が高い弱者援助政策は、縮小できるのであり、かえって小さな政府を実現できると思います。
 税務部門は国家の基礎ですから、やはり税は、徹底的にちゃんと捕捉するんだという前提に立って、固定資産税の徴収なども含めて、課税の公正のための職員、予算は、徹底的につけても構わないと思います。そういった前提で、累進の所得税中心主義を回復したほうがいいと考えています。
 必要だという前提に立てば、地方税収についても同じことが言えます。国税、地方税を問わず、誰がどれぐらいの所得を得ているか、固定資産税にしても、土地や建物についてごまかされずに払われているのかについても、徹底的に調べるべきだろうと思います。
 さらに税目として、個人ごとに強者、弱者の度合が完全に特定されるということになると、法人税は全然根拠がなくなります。法人税とは、何となく企業が払っていると皆さんお思いかもしれませんが、これは株主や従業員が払っているわけですから、株価と連動します。従業員の所得には、個人所得税がかかっているので、法人税には全く理由がない。法人税を取って、お金持ちの企業を痛めつけて、個人が優遇されているように錯覚させるトリックは、政治的にはあるかもしれませんが、法人税で払わせるぐらいだったら、個人所得の捕捉を徹底させて、株式のキャピタルゲイン税だけに一本化するのが筋の通った税ということになります。
 また相続税は、運への課税だから、100%でもいい、少なくとももっと上げてもいいと思います。
   
7. 受益者負担による都市基盤施設整備
   固定資産税については、運、能力、努力という観点から見ると、インフラ、すなわち都市基盤施設の整備財源は、基本的に受益者負担でやるべきことになる。一般的な公平感覚に合致する考え方として、土地税にするべきだと思います。
 具体的には、例えば鉄道ができる、道路ができる、公園、下水道などが整備されるという、要するに持ち運びできない受益は、全部土地に帰属するわけです。これがその土地の価値が上がる一番大きな要因になっています。近所に駅ができた、高速道路のインターチェンジができた、立派な公園が整備されたというのは、みんな地価を上げる要因です。逆に下水処理場なら地価は下がる。現在、費用便益分析にヘドニック法といった技術がありまして、どの施設がどの土地の値段を幾らぐらい上げたのかということが、容易に算定できるようになってます。
 そういうふうに考えますと、都市基盤施設のどれがどの土地の値段をどれぐらい上げたのかということが判りさえすれば、土地税を受益者負担の仕組みに変えることができる。所得税を取った中から道路整備や鉄道整備あるいは上下水道の整備等をやらなくても、土地税をいわば目的財源、特定財源として、都市基盤施設の整備を行うことができることになる。これも、努力、運、能力を補正した課税という意味があります。
   
8. 土地の譲渡益課税と土地投機
   土地の譲渡税、固定資産税、都市計画税、取引税などの類型は、大まかに言えば、全て都市整備財源としてのみ使われるべきだということにもなります。すなわち地価上昇の原因は、都市基盤施設以外には想定しづらいわけですから、その整備費を超えて土地からお金を取るというのは取り過ぎだということになります。反面、土地の整備費を所得税から取るのも、逆の意味で所得税の取り過ぎということになる。発生原因に応じて税目もきっちり分けるべきだと考えます。
 特に土地の譲渡益課税についてはどう考えるのか。これも固定資産税の見直しの最近の論議と絡んで、大変重要な論点です。世上には、固定資産税が高いという大合唱が多いですが、背景に、譲渡税も高い、もっと下げろ、とにかく土地の税金は、安い方がいいという乱暴な議論が大変多いのです。私は必ずしもそういう議論には与しませんので、土地の譲渡税は本当に有害だろうかということを、まず考えてみたいと思います。
 土地の譲渡益課税を取ると、土地取引を阻害すると言われます。不動産取引を阻害するから、これは有害なんだ。だから、こんな資産デフレの時に土地の譲渡税の強化等ということはとんでもない。軽くする以外に選択肢はないというのが俗説の実型です。
 他の事情を一定にした場合に、仮に土地の譲渡益課税を0%と50%というケースを想定して比較します。例えば取得価格が1,000万円、現在の市場価格が1億1,000万円という土地があったといたしますと、土地の譲渡益、売る前ですと含み益ですが、1億円の含み益ということになりますね。これを譲渡しますと、0%の土地譲渡税だと1億円、50%の土地譲渡税だと5,000万円が手元に残るということになります。一体どっちの方が土地投機を抑制するだろうかと考えますと、50%に上げた方が、この数値が前提で他の事情が一定だとすると、土地の投機的利益は少ないわけですね。
 これをもし100%にしたらどうでしょうか。1億1,000万円で売れた土地の1億円の譲渡益を全部召し上げるということになると、譲渡益はゼロになってしまう。ということは、土地を転売目的でいつまで持ち続けようとも、土地から利益を得ることはできないという仕組みに転換してしまいます。こうなってしまうと、投機は全く利益を生まないことになりますから、土地の投機が土地に関する資源配分を歪める、即ち土地の有効利用を阻害するという前提に立つ以上、他の事情を一定にした場合に土地の譲渡税率が高いということは、投機を抑制し有効利用を促進するよい税制だということになる。
 固定資産税でも同じことが言えるわけですが、要するに譲渡税の根拠というのは地価の上昇ですから、地価の上昇のかなりの部分が都市基盤施設の整備でもたらされるということを想定して、それをもたらした整備者に利益を返していくというように財源のサーキットを考えると、都市基盤施設の整備財源も、受益者が負担して原因者が受け取ることになって、結局利用者・納税者の負担が償なわれるという意味で、公平な好循環も可能になるわけです。したがって、一概に土地の譲渡税を取ると駄目だというのは、決して妥当ではありません。
 しかし、これは実は他の事情を一定にしての議論ですので、それが一定でない場合があるというのが次の話です。土地取引の凍結効果が譲渡税にはある、という議論です。これは、事実です。即ち、さっきの説で、1,000万円の土地を1億1,000万円で売る時に、仮に譲渡税率が2割だったら2,000万円の税金を取られますね。5割だったら5,000万円取られます。そうすると、今度は地価上昇期待がゼロだという仮定、要するに今年売っても来年売っても、土地の名目価格自体は同じだという前提に立ちますと、2,000万円の譲渡益課税を取られる2割のケースの場合、今年売るのと来年売るのとどっちが有利かと考えますと、2,000万円の税額を延納する利益がありますから、来年のほうが有利ですね。来年よりも再来年のほうが有利ということがあります。さらに5割取る5,000万円の譲渡税額のケースだとなおさら、今年取られる5,000万円と将来取られる5,000万円は、同じようにやはり来年、再来年のほうが有利になるんですね。
 税額に、利子率に相当する比率を掛けた分だけ、延納の利益が常に譲渡税には発生しますので、譲渡税率が高ければ高いほど延納の利益が大きくなる。即ち今年より来年、来年より再来年というように、売り延ばした方が手元の収益は大きくなるのです。
 この意味において、凍結効果があるために、譲渡税が土地取引を阻害するという命題が真理になるということであって、単純に譲渡税を取られるから凍結効果があるんだというのは、俗論で間違っている。要するに、譲渡税額延納の利益が凍結効果の正体であり、逆に言えば、延納の利益をうまく相殺できれば、譲渡税率は高ければ高いほど有効利用が進むということになります。
 結局土地の譲渡税というのは、単純な税率の面で見ると、税率が高いほど流動性が高まる要素になる、逆に、税率が高いほど譲渡税額の延納の利益が大きくなるという意味で、流動性を低める要素も両方あるわけですから、これらが相殺されるという問題があります。
 したがって、単純に凍結効果があるという議論は、おそらくこういう中身を全く理解しない暴論なわけですが、相殺すると確かに後ろの方の、流動性を低める要素の方が大きくなるということがあり得ますので、後者の要素、すなわち凍結効果の要素を別途除去することが可能であれば、高率の譲渡税は、土地の有効利用という観点ではむしろ合理的だということになります。土地のキャピタルゲイン税、ないし売却時中立課税という議論です。
 これも、運による利得の吸収ということにつながります。たまたま土地を持っていたら、納税者の負担で周りの道路整備や下水道整備、公園整備がなされて、土地の価格が上がって資産家になったというのは全く運でありまして、相続以上にはっきりした運による利得ですので、100%吸収しても本来はいいと考える余地がある。
 ところが、日本人は小地主が多くて、今は7割ぐらいが土地所有者と言われています。ささやかな土地の値上にしがみつく、このキャピタルゲイン税を取った方が、よっぽど別のところで巡りめぐって返ってくるのですが、みんなそこまではなかなか見えない。上がって欲しいという意図もあるため、政治的になかなか難しいということは承知していますが、国民経済的に見れば、こっちのほうが確実に得です。
 それから、努力に非課税ということにもなる。分配の公平にも合致する。さらに、単純に取り上げてしまいますと、ディベロッパーが景観や環境に非常に配慮したいい開発をして、地価を上げたというケースまで、その分も全部召し上げてしまったら、いい投資をする人がいなくなってしまいますので、土地所有者による付加価値の形成、土地の利便性や環境価値、景観価値等を上げるような投資については、その投資分をちゃんと控除する。付加価値分はちゃんと控除した上で、残りは100%課税というのがあり得るべき一つの範型だということなります。
 キャピタルゲイン税というとよくわからないので、私の言い方では付加価値控除型譲渡益課税です。インフラの整備財源も出る、環境価値等も高まる、そして有効利用も進んで、よりコンパクトな町並みも可能になるという方向を促進する税制だと考えております。
 これは結局、ソフィスティケートされた形での、取得価格を超える土地所有者の所有権を、実質的に公有化する議論です。元々取得した分までは、あなたの個人資産として保証しましょう。それを超える値上がり分は、利用面ではあなたの自由に委ねますけれども、資産価値の面では、いったん政府部門に召し上げさせていただきます。政府部門というのは、別に国とか自治体ということではなく、納税者に返していただくと考えるわけです。地価を上げた納税者に返していただいて、それをまた再投資の財源に回したり、必要がなくなれば減税に回すことが、可能になるわけです。運、能力、努力という区分から見ても、公平ではないかと考えます。
 これは損失補償にも応用が可能です。現在、憲法29条3項に、私有財産は、正当な補償のもとに公共のために用いることができるという条項がありまして、この憲法29条を論拠に、土地収用法や都市再開発法が設けられています。
 現在の最高裁判例では、補償が要るか要らないかについて基準を設けています。社会生活上、受忍できるような特別の犠牲に当たる場合には補償が要る。逆に言えば、特別の犠牲でない普通の犠牲であれば、補償は要らないという。ですから、これまで市街化区域であったところを、突如市街化調整区域にしても、最高裁の論理によれば、これは補償は要らないということになるんです。農地解放の時もそうで、あれも特殊な事情がありましたが、補償は要らない。
 しかしこれでは、財産権侵害の程度を横軸にとって、ゼロから特別の犠牲に至るまでの一定の範囲については、補償額がゼロなんです。特別の犠牲という一定の受忍限度を超えたところで、突如市場価値が全部補償されるようになる。グラフとしてはこういう格好になる。途中まで、特別犠牲までは水平線、特別犠牲のところから、突如全額補償になって、その後は侵害の程度に応じて比例して補償がなされる。
 これは、全く公平ではないと思うのです。私も土地収用法の実務を2年ばかりやったことがありますが、かねてより疑問を持っております。特別犠牲の手前の人というのは、1銭ももらえないけれども、誰かが替わりにちゃんと受益しているわけですから、全くアンフェアだと思います。
 先程申し上げた付加価値控除型の譲渡益課税を導入しますと、取得価格に付加価値を足し合わせたものを収用したときには、その値上がり分を補償するというように、補償基準を変えることができるわけです。要するに、取得価格プラス付加価値を何らかの意味で侵害したとき、価値を低下させた分だけは全額補償しなさいということになって、特別かどうかということを議論する意味がなくなります。損失補償の方も合理化されることになるのです。
   
9.  固定資産税と付加価値控除型譲渡益課税
 以上が固定資産税の議論にどう結びつくのかという点を最後に申し上げます。土地の保有税は、キャピタルゲイン税、付加価値控除型譲渡益課税を完全に代替することはできないのです。一種のセカンドベスト、サードベストとして、土地の保有税が、付加価値を除いて一定程度、開発利益を吸収する役割を果たしているのは疑いありませんが、先程の含み益利子課税、すなわち譲渡税に対する延納利子を取る税制を仕組んだ時と比べると、土地ごとに違う地価上昇の程度に応じて毎年保有税率を変えるということは、難しい以上不正確になる。
 今は標準税率は一応1.4%ということになっていますが、これを地域ごと、地区ごと、あるいは都市ごとにも異なる地価上昇率に応じて毎年変えるなどということは実際上できませんので、上昇率に見合って取る付加価値控除型の譲渡益課税と同等の機能を固定資産税で果たさせることは、技術的に困難です。
 したがって、土地保有税は整理可能になります。土地保有税の代わりに、取得価格と現在の市場価格との差額、さっきの例でいうと、1,000万円の土地が1億1,000万円になっているというときには、含み益は1億円ですから、土地保有税は1億円にかけるということです。1億円に利子率相当分を掛けることによって、土地の譲渡益課税の凍結効果を完全に相殺できます。今後は、これを土地の固定資産税と呼ぶことにするというのが、私としては長期的にはお勧めしたい税制です。
 譲渡税とも連動関係を作るということになります。取得価格が9,000万円の土地で、今1億1,000万円になっているというものですと、これは2,000万円に利子率を掛けた分だけ毎年徴税するということになりますから、時価評価さえ出来ていれば、別に技術的には難しくない税制です。
 取得価格と時価との差額に対して、利子率相当分を毎年課税する、これが新しい固定資産税ですということになるわけです。基本的に、インフラによる地価上昇分は建設費に当たりますし、含み益に対する利子相当分の課税で、普段のインフラのメンテナンス費用は捻出できるので、バランスのとれた税制になるはずです。
 長期的には、譲渡税を一定程度強化することを前提として、その含み益に対する利子課税として土地の固定資産税を位置づけていくことが妥当と考えます。運用実務はそれほど変わらないわけですが、背景となる理論的な考え方の転換を目指していくことで固定資産税はより合理的な税になることができると思います。 
   
10.  現行の負担調整措置の問題点
 目下の固定資産税の負担の話を最後に申し上げますが、これはかなり高い。課税調整措置のせいで、今ごろになってかなり高くなっています。2000年では、固定資産税が自治体の全収入の45%あります。住民税が31%ですから、いつの間にか固定資産税のほうが大逆転して、中核税収を占めている。取る立場からすると、たくさん使える余裕があっていいということになるかもしれませんが、これは資源配分に大きな影響を与えるものですから、今頃になってこれだけ高くなるというのは、実勢を超えて土地デフレを進捗させる可能性がありますので問題です。
 地域別分布を見ると、現在では明らかに大都市の方が固定資産税の負担水準が高くなっていますが、本来、地域別にこれほどの格差が出るのは望ましくありません。
 2001年の統計では、法人の売り上げ高に占める固定資産税の割合が、0.28%あります。約10年前の90年と比べると、90年が0.16%ですから2倍弱です。法人は、工場やオフィスを持っていますから固定資産税を払っています。法人の固定資産税負担が、10年間ぐらいでシェアが2倍弱になっているのに見合うだけの負担が必要なのかについて検証が必要だと思います。安定的に推移さえしていれば大きい問題ではないのですが、時機に遅れて変えるといろいろ弊害が生じますので、リアルタイムに更新するようにし、調整措置は迅速に終了させるほうがよいと思います。
 また、既に繰り返し論じたとおり、現在の固定資産税は、あくまでも名目時価、実際には大分低いと思いますが、一応時価に単純に1.4%を掛けるというものです。これは、時代により取り過ぎにもなり、取らなさ過ぎにもなるということで、あまり合理性がない。時価に掛けるのではなくて、取得価格と時価との間の含み益に掛ける利子税に変えていき、これをリアルタイムで取るようにすれば、負担調整措置で苦しむ事態は、回避できます。土地の固定資産税の負担増は、キャピタルゲイン税ないし付加価値控除型の譲渡益課税への移行をスムーズに行うことによって、徐々に調整は可能です。ターゲットはもっと大きなものとして考える必要があると思います。
 
   
11.  家屋課税の撤廃
 建物について補足しますと、建物の固定資産税は、最近の制度改正で大分単純化した旨、総務省固定資産税課からもお聞きしており、望ましい方向だと思っています。ただ固定資産税の土地分については、幾つかの組み換えによって改善する余地があるのですが、建物については、基本的な問題があります。
 建物に固定資産税を掛けると、どうしても投資を抑制してしまうわけです。保有税は、土地に掛けると有効利用のインセンティブになりますが、建物にかけると、建物に投資することが、その分だけ確実に不利になるわけですから、投資が少なくなる現在のような土地デフレ、不動産不況の下で建物に掛けるのはなおさら好ましいことではない。しかも現在の建物固定資産税は、ご承知のように、耐火建築物だったり、しかも設備が高機能だったりすると、要するに耐久性、安全性が高く、設備も充実していたりすればするほど、評価額が高くなります。よい建物を建てる、耐久性のある建物を建てるということは、ストック時代の重要な政策課題でもありますが、そういう耐久性の高い、ストック時代にふさわしい建物であればあるほど、投資が抑制される、すなわち税をたくさん掛けられて不利になります。これは基本的に望ましくない。
 耐久性や安全性は、高い方がむしろ有利になるようにしたほうがよいし、そもそも建物については、投資内容が評価額や税率で影響されることがないように、建物固定資産税は長期的に完全に撤廃していく、その分、土地の方はきっちりやるという方向に行くのが望ましい固定資産税体系だと考えております。 
   
12.  取引税の撤廃
 取引税ですが、不動産取得税、登録免許税、印紙税などは、基本的に流通を阻害する役割を果たしておりますので、縮小・撤廃をしていくことが必要だと思います。特に登録免許税などは、手数料趣旨のはずなのに、実費を超えてやたら取られていますが、そんな必要はない。登記所の負担する事務手数料としての分を数千円払うのならともかく、何万円も払う根拠はありません。
 これも、昔の悪しき担税力主義の名残ですね。高いものを売買できるんだから、たくさん金を払えという論理でしょうが、それは、土地を、より有効利用できる可能性のある人の手に土地所有権を移すことを妨げるということになって、土地利用を阻害します。取引税は縮小・撤廃していくことが、現下の重要な課題だと思います。